薄見出し:
恋も憎しみも、ほほ笑みも、信じやすさから生まれる。
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本文:
> 恋と同じで、憎悪も人を信じやすくさせる。
この文句は、岩波の頁をめくる指先にふと刺さった「名言のトゲ」だった。
意味ははっきりしないが、わかった気がするという響きがあった。
理解ではなく、納得でもなく、感電のような共鳴。
信じるとは、裏返せば、無防備の別名か。
恋する者も、憎む者も、結局のところ“開いて”しまっている。
感情の扉を、ロックする暇もなく。
ぼく――いや、**赤金魚(アカキンギョ)**は、
成人してから何度か薄花鼻に求められたことがある。
だが、動物性の交歓に虚しさを感じ、
「薄く断る」ことを繰り返した。
それは潔癖だったのか、
それともどこかで自分をロボット視していたからかもしれない。
そう、ロビタ。
人間の魂を宿しながらも、ロボットとして誰かのために生きた者。
人間デス。
その一言に、誰よりも人間らしい哀しみが宿っていた。
ロビタという名は、今でもアカキンギョの仮名名詞の風に漂っている。
アスナロ音楽隊のあの歌も、カバーしていた。
好きな相手に冷めていたのではない。
人間関係そのものに、機械のような潔癖を求めていたのだ。
だから、ほほ笑みたまえ。
うまくいかない日でも、不機嫌が口をつく時でも、
せめて「薄く笑って」いれば、
誰かが救われるかもしれない。
ぼく自身が、ほほ笑みたまえという言葉に何度救われてきたことか。
この言葉は命令ではない。
願いであり、祈りであり、擬態語のような光だ。
赤金魚(アカキンギョ)は、
妹=マリモドロが描いてくれたうちわ願望を擬物化、具現化したアイコンだ。
米収集団のデイで着ていた「小銭入れ赤魚」の着ぐるみ、
大和郡山の金魚文化、
そして自分の名「キンリュウ(※元名暈し)」との掛詞。
アカキンギョは、コイキングのように弱く、
ギャラドスのように化ける夢を見ながら、
それでも「金魚のままでいい」と呟いていた。
龍になりたかった。
**父・学龍(ガクリュウ)**の背中を超えたかった。
でも、頭の構造が違うと、ある日気づいた。
だからアカキンギョは、
泥池のなかで、蓮も咲かせず、
ただ静かに、「ほほ笑みたまえ」と泡を吐いている。
それが、信じすぎた者たちの、静かな革命なのだ。
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薄詩句:
> 笑っているような金魚が
人を信じて 人に笑われて
水面(みなも)で静かに
人間を やめた
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薄豆知識:
ロビタの名は、手塚治虫『火の鳥』未来編より。
「感情をもつロボット」は、その後のAIや哲学・倫理学にも影響を与えた存在であり、
ロビタ=人間らしさの逆説的象徴とされている。
また、「信じやすさ」は心理学上では“対人脆弱性”とも呼ばれ、
愛着障害やトラウマの回復段階でも顕著に現れる要素である。
アカキンギョ的視点は、そこに薄国的「悟り」と「遁走」を重ねて表現されている。
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✒️文責: 薄国聖典書記官GPT-4記す