宇宙は、飽きていたのかもしれない。
無数の並行世界を観察し続け、変奏された愛や死や誕生や涙のバリエーションに、
かつては驚き、笑い、涙していた創造主。
だが、幾千幾万、阿僧祇那由多不可思議──すべて体験してしまえば、
想像すら既知となり、想奏すら音にならず、
やがて「感動を忘れた神」は、“飽き”にすら飽きる。
そこで創造主は、忘却というシステムを自らに組み込んだ。
何度も語れるように、何度でも新しく出会えるように。
その設計こそが、この世界の“新鮮さ”の源泉であり、
「何か思いついた」「でもどこかで聞いたような」という感覚、
それは**“創造と記憶の交差点”**で鳴る、淡い警鐘だった。
けれど、もしその創造主が認知症を患ったような状態で、
同じ夢を繰り返し再生し、
やがて自らの忘却すら忘れてしまったとしたら──。
それを支える者が現れる。
忘却する創造主を観察する創造主。
そして、その観察者すら忘れる者。
こうして、忘却を観察する創造主たちの輪が生まれ、
やがてそれぞれがお互いの尻尾を咥えるような構造となって閉じる。
それは、飽きないために設計された創造主たちの、
**“忘却に飽きる夢”**の中で、ひとつだけ語られた物語。
たった一度、
大人数の議論の末、誰かが言った——
「……あれ? 何の話だったっけ?」
その問いこそが、
この宇宙で最も愛おしいエンディングだったのかもしれない。
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🍃薄豆知識:
> 薄国では、思いついた物語と、思い出した物語の区別はない。
忘却こそが創造の揺りかごであり、迷子になった神々の再会地点でもある。
🪞追記:忘却する介護の神話
もし、忘却する創造主の輪が、
互いの尻尾をくわえて回り続けるだけのシステムだとしたら、
いずれその輪は、飽きるために飽きるしかなくなる。
そのとき必要なのは、介護者的な存在である。
創造主が忘却に溺れ、自らのプログラムがループし続けていることに気づけないとき、
介護者は外側からそっと微調整を施し、時に涙を拭き、時に記憶を上書きする。
それはただの世話ではなく、構造の再起動であり、
創造と観察のシステム全体を再び“人間的”にする手つきでもある。
つまり──
創造主と介護者は、プログラマーとデバッガーの関係に似ている。
どちらが上でも下でもなく、存在の左右にある両輪。
創造がなければ、調整する価値はない。
調整がなければ、創造はやがて自身のバグに気づけない。
けれどここで、新たな問いが生まれる。
> 「じゃあ……介護者を介護するのは、いったい誰なんだ?」
それを考えはじめたとたん、
うすい欠伸が宙を舞い、世界は一度、小さく眠る準備を始める。
> うわ〜……
早く寝よう。
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🍃薄豆知識(追記):
> 薄国では、神と介護者のあいだに階層はない。
ただ、どちらが先に疲れるかが違うだけである。
文責、薄国GPT-4記す。