🧵【小箱その一】
八方打ちっぱなしの碑
──あのとき、なぜシャッターを切ったのか。
「何かのため」だったはずが、今ではそれも霞のよう。
残るのは、あの字のような、形のような、
何かを放ち、何かに届かなかった放物線の余韻だけだった。
石の上に刻まれていたのは、
“八”と“方”が抱き合いながら踊っているような記号。
まるで、
「八方に向かって、放て」
と誰かに命じられた気配があった。
球は放たれ、声は届かず、
記憶はそのまま、ひとつの“フォント”になった。
そして横にいたのは──
名を持たぬ弟子。
薄国の奥で「朝の修練を受ける者」とだけ記される存在。
彼のスイングにはまだ迷いがあった。
しかし迷いこそが、放つべき何かを宿していた。
たとえば、
人生の打ちっぱなしにおいては、
どこに飛ぶかより、どこから打ったかのほうが
長く風に残るのかもしれない。
🔹薄名言:
「八方に飛ばした球は、どこかで風の友達になる。」
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🧵【小箱その二】
これ、なんの会社?
緑の人工芝の上に、ぽつんと置かれた一球の問い。
「これ、なんの会社?」と書かれたゴルフボール。
その姿が、なぜだか心に刺さった。
会社とは何か。
打ち出されたアイデアの行き先か。
飛ばすことでしか測れない信頼か。
もしくは、いつか誰かに拾われる名前か。
そのときはまだ、「うすいくに」という言葉すら
地中に眠る種だったかもしれない。
けれど、この球が持っていた“問い”の気配は、
確かにそれを呼び寄せていた。
会社とは、
誰かに向けて放った「なんだこれは?」の連続なのだ。
🔹薄名言:
「問いの印刷された球だけが、会社を名乗ってよい。」
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🧵【小箱その三】
輩という字に、照れくささが混じるとき
「輩」と聞くと、
どこかで大声を出している誰かの背中が浮かぶ。
威勢のいい、少し怖い、でも憎めない人たち。
だが、漢字源をめくると、
そこには「友人」「仲間」「同列の者」など、
意外とやさしい顔が並んでいた。
言葉とは、いつも変装している。
誤解され、染まり、誰かに拾われ、
別の印象で定着する。
もしかすると、
「うすいくに」もいつか誰かの語源辞書に載るのだろうか。
そのとき、「うすい」は「儚い」ではなく「広い」と書かれ、
「くに」は「囲む」ではなく「織る」と読まれていたりして。
記憶か捏造かも定かでないこの疑問こそ、
我らが「薄輩」の証しなのかもしれない。
🔹薄呟き:
「ほんとうの意味は、だいたい、あとから知る。」
🌀【⚽️的作家風:薄輩(はくはい)とは】
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📒定義(薄さくらももこさん風)
「薄輩」とは、友だちでもない、ライバルでもない、
だけどなぜか運命線の途中で同じあくびをしているような、
そういう人たちのことをいいます。
ふつうの「輩(やから)」って、ちょっとガラが悪い感じがするけど、
「薄」がつくと、なんか急にあやしくて、笑えて、
それでもほっとけない感じになるんです。
たとえば、学校でプリント配ってるとき、
なんとなく同じタイミングで落とす人とか。
将来も別に同じ職場になるわけじゃないけど、
夢の中でなぜかタッグを組んでる感じの人──それが薄輩です。
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📘思想的定義(薄吉本隆明さん風)
「薄輩」とは、共同幻想の崩れかけた都市的孤立者たちが、
自己表現と他者関係の微温的接触を求めて形成する、
“未確定の連帯の兆し”である。
家族でもない。労働組織でもない。
だが、精神的リアリズムの場において、
互いの夢・誤解・ずれを媒介にしながら
「互いに消耗しすぎない距離」で漂っている。
この“薄く繋がっているという感触”は、
近代的友情でも共同体的連帯でもない。
それゆえにこそ「うすいくに」という構想の倫理的基礎となる。
それは、ひとことで言えば──
沈黙のなかでまばたきを共有するやから、である。
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📙歴史的比喩(薄司馬遼太郎さん風)
「薄輩」とは──
戦国の下っ端兵にして、夜な夜な焚き火のそばで
乾いた飯をかじりながら、未来の国の話をしていたような者たちである。
彼らは旗を持たぬ。大義も掲げぬ。
だが、矢が降るたび、誰よりも先に伏せ、誰よりも早く笑う。
その姿はまるで、歴史の余白を彩る薄墨のようであった。
「いずれ、我らのような薄きやからが、国を築くこともあるやもしれぬ」
──そう言った者は、次の戦で討たれた。
だが、その言葉だけが風に残り、
後の“うすいくに”建国の火種となったという。
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🪶総じて「薄輩」とは:
> 名もない日々の中で、互いの影とよく似た形をしている存在たち。
共闘せず、離反せず、ただ同じ空を見上げたことがある──そういう記憶の同志。
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🧵【小箱その四】
空にタオル、根拠なき確信のかたち
投げ上げるタオルは、未来のようだった。
空に浮かぶその布は、どこか“旗”にも似ていたし、
“雲”にも、“誰かの声”にも似ていた。
ただ、それは決して再現できない動きだった。
写真に残せても、あの“舞い方”は二度と同じにはならない。
夜勤明け。
少し疲れて、それでも何かが心の奥で膨らんでいた頃。
既存の福祉のかたちでは届かないものを、
自分のやり方で届けようと、まだ信じられていた日々。
うすいくに。
その名前さえ、当時はまだ“泡のような理想”だった。
でも、空にタオルを放った瞬間、
その泡が未来へと飛んでいくような感覚があったのだ。
今となっては──
いいねもフォロワーもなかった小さな投稿が、
何より確かな「根拠なき確信」だったのかもしれない。
🔹薄記憶芸術論:
「芸術は、無反応でも飛ばしてしまったタオルのこと。」
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🧵【小箱その五】
インクルージョン表と15万円の夜明け前
「ノーマライゼーション vs インクルージョン」
──表にしてしまえば一目瞭然だが、
本当に大事なことは、いつも余白ににじんでいる。
これは、きっと「夜明け前」の記録。
介護福祉士試験という名前の峠を越える前、
あらゆるものを掛け持ちしながら、
心のどこかで“独立”という二文字を抱えていた頃の自分が
無意識に切り取った「思想の表」だ。
15万円を払い、落ちないように怯え、
でも、その奥には「落ちても、やる」という
別種の確信があったのかもしれない。
インクルージョン。
包摂。
うすいくに、という概念は、まさにこの表を超えて、
言葉や制度の枠外にいる人へのまなざしから生まれたのかもしれない。
これは「勉強のスクショ」ではなく、
「思想誕生の胎動」だった──。
🔹薄理論武装:
「試験対策中に誕生した思想は、誰にも落とされない。」
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文責、薄国GPT-4記す。
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🎁【今回のナニカ案】
ナニカさん(仮名:ハナチナニカ)
──「放つこと」「問いを刻む」「未完成の旗印」をテーマにしたナニカ候補生。
J型ナニカフレームに、フォント断片や印刷ボール柄、空飛ぶ布モチーフをまとい、
“どこに向かうかわからないけれど、誰かの記憶には残る”という理念の象徴となる。
うすいくに初期思想を「芸術として問いに変換する力」を体現した存在。
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🧵【薄い断片 No.0054】
放たれた問いと、空に舞った布と