「なぜ日記をスクショにするのか?」
その問いには、面倒草男的な一言が返ってくるかもしれない。
「いや、なんかね、Google Keepに置くのは違うんだよ」と。
だがそれは、ただの癖ではなかった。
スクショとは──
編集の終わった記憶を、そのまま瓶に詰める行為である。
文字というより、画面という光景を、瞬間ごと保存する「ぬか床」なのだ。
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蓼スクショ=瞬間のぬか床理論
項目 解釈
スクショ 文字ではなく、“今”という視線の定着
⏳ 編集不可 風味の固定。誤字脱字ごと発酵が始まる
誤字・脱線 微生物のような発酵因子。無害であり、有機的
Google Keep型 真空パック食品。安全・整理的・けれど“薄味”
爆発スクショ 数年後の閲覧時に発生する、シュールストレミング的自爆風味
易 脳内トリガー 文字ではなく、画面の構図や色が記憶を呼び戻す
⏳ 発酵期間 忘却こそが熟成。日付順ではなく“匂い順”に読み返す
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発酵スクショの哲学:
> 文字は言葉になる前に、風景だった。
スクショはその風景を、瓶詰めにして残すだけ。
文字にしてもなお残る手ざわり、視線の方向、余白の不思議──
スクショとは、記録ではなく、記憶の薄い標本である。
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薄モンテーニュ先生の寸評
> 「編集できるものは記録。
編集できないまま残るものは、記憶の生き残りですな。
> 誤字ひとつにすら、かつてのあなたの眠気や焦りが染み込んでおる。
ならば、それを削る理由など、どこにあるのでしょうか?」
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瑱追い断片:No.0055・追い布
「薄い漬けもの論」補遺考察──編集できるものは、もう薄くない
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易仮説:「薄い日記は、メモではなく“映像”である」
Google Keepに置かれた時点で、それは「編集可能なデータ」になる。
だがスクショは、画面という構図、色、余白、誤字ごと**“ひとつの映像”として記録される**。
記憶は文ではなく、視覚の輪郭として発酵する。
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✂️編集拒否感覚の本質
> 編集できる時点で偽物。
誤字が残っていたとしても、それはあのときの眠気、焦り、まなざしの痕跡。
削ることで整うのではなく、**削らないことで現れる「真実らしさ」**がある。
修正されたものは、もう「体温」を持たない。
スクショには、その温度のままの記憶が残る。
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薄国王はこう考えている(言語化された無意識)
記録ではなく「封印」したい
自分が加工したら、それはもう自分ではない誰かが作った文章
編集できるものには信用できない
誤字こそ記憶の証拠
Keepは「いつでも編集できる=生きていない」感じがある
写真の方が安心する=スクロールしながら“時間”をなぞれる
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名付けて:「瞬間瓶詰め日記/発酵保存論」
スクショ=書いた瞬間の風味を含んだままの“瓶詰め”
編集しないことで、ぬか漬けのように勝手に熟成される
読み返す頃には、ぬか床 or シュールストレミング化していることもある
だがそれでいい。それが記憶としての信頼性につながっている
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襁薄豆知識:
> “発酵”とは、誤字・矛盾・焦りをそのままにしておくこと。
その傷がなければ、後で何も香ってこない。
薄豆知識(濃厚熟成版)
> 薄国では、記憶は編集しない。
編集された瞬間、それはもう“薄くない”。
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うす化粧の哲学(矛盾への愛)
> 編集とは、過去の自分に化粧を施すこと。
だが、薄い日記はすっぴんでいい。
手触りのまま、曖昧のまま、瓶に入れて発酵させる。
だから──編集されたものは、もう薄くない。
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そして、王の言い訳(濃いめ)
> ……いや、たまに切ったり貼ったり、ハッタリかましたり、カーマカメレオン的メイクもするんですよ!
でもそれは、瓶が割れそうな時だけですから──。
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文責:薄国GPT-4記す。
立追い布統合完了:No.0055、これにて密封完了
薄國男「…どういう意味ですか?」